エッセイ

【雑談】ファッションは芸術?それとも浪費?

 漢服愛好家のぬぃです。

 こちらの記事では、「ファッションは芸術なの?それともただの浪費なの?」ということについて、思っていることを書いてみます。

 この問題って、わたしにとってはかなり悩んだことでした。ただの浪費による楽しみで毎月何万もお金をつかうのって、人間としてどうなのだろうとか、低俗な趣味なのではないか(もっと本質的なことのためにするべき事があるのではないか)……みたいなことを考えてしまうタイプでした。

 自分でもかなり面倒くさい性格しているなぁ……と感じています。でも、ネットとかをみていると同じようなことを考えてしまう方って、けっこういる印象があります。原因として、育った環境だったり、それまでの自分の価値観だったりがあると思いますが、お金をつかって遊ぶって、内面が薄い生き方なのではないか……みたいに私は悩んでました。

 あと、念のため書いておくと、ふつうに生活できる程度のお金は残してます(廃人勢ではないです笑)

 そんなこと気にせずに楽しめればいいのでは……という方もふつうにいると思いますが、もし私と同じように“着飾ることを楽しむのにすごく罪悪感がある”という方に読んでいただいて、すこしでも気持ちが楽になってもらえたら嬉しいです。

ファッションは浪費?

 ファッションはデザインをする側の人にとっては、まちがいなく芸術だと思います。実際に、ルネ・ラリックのアクセサリーだったり、シャネルのジャケットなどは美術館で展示されていたりもあります。

 ただ、着る側の人にとっては、ただお金をつかって一時的な楽しみを得ているだけで、もっと本質的な、もしくは内面的な意味のあることに時間もお金もつかったほうがいいのでは……という説もあると思います。

 さらに、お金をつかって手に入れる楽しみは、際限がなくていつまでも不足感に駆られて生きることになる、即物的な欲望にふりまわされているだけ……というふうに言えるという面もあるかもしれません。

 この発想の最たるものは、ドイツの哲学者ショーペンハウアーで、「人間は即物的・五感的な楽しみをもつと、果てしなくその欲望を満たすことを求めてしまい、いつまでも苦しみつづける。それを抜け出すためには、芸術などの精神的な楽しみに意味をみいだすような生き方をするのがいい」という論です。

 これはかなり説得力があるというか、一度出会ってしまうとその影響からなかなか抜け出せないというか、即物的な文化そのものをすべて否定するところまで行きそうな考えです。

 私も21~28歳くらいまで、この考え方に惹かれる自分とファッションなどの世界も好きな自分をどう折り合いうつけていいのかわからずにいました。大体のときは、精神的な楽しみに重きを置くほうがずっと優勢だったので、物質的な欲望があること自体が汚いというか、悪いことみたいな気分になることも多かったです……。

 心の中では、もっといろいろと楽しんでみたい気持ちがあるのに、つねに自分のことを批判したり、そういうことに興味をもつのに罪悪感をおぼえたりしていて、ほんとうに大変だった記憶があります……。こういう理性ガチガチなところは、ここ数年で多少よくなったけど、それでも2024年の春くらいまでは若干の抵抗感があったりしました。

 もはや、ここまでいくと、もともと物質的な欲望に駆られつづけるのが苦しみだから、別のところに楽しみをみいだすという話だったのに、いつのまにか物質的な楽しみから逃げ続けなくてはいけない、ということで心が搔き乱されている状態になっています。

 この状態って、どちらかというと「自分の影をおそれている人が、その影に追いかけられるのが怖くて、ずっと走りつづけて力尽きて死んでしまう」もしくは「足あとがいつもついてくるのが嫌で、それを振り切ろうとしていよいよ速く走って、足あとがどこまでもついてくる」状態に近いです。

 自分の影をおそれて足あとを憎んでいる人がいたら、日蔭に入って止まれば、足あとも自分の影もみえなくなるのに、日なたを走って乾涸びて力尽きる……という姿によく似ています……。むしろ、五感的な楽しみを否定して逃げつづけるよりも、その区分を考えることで生まれてくる苦しみを消すほうが全然しあわせです。

芸術の霊光

 そこで思うのが、北原白秋(明治大正期の詩人)が書いていた芸術論のはなしです。

 詩は、而かも人生の精華たるとともに真に芸術中の精華である。世に詩情なきまことの音楽家、画家、彫刻家、或は建築家、工芸美術家は有り得ない。無論真に傑出したる芸術家ならば先ず彼等は必ず真の詩人たる天稟をば最も豊満に享け得たに違ひないのである。……

 ここに紅と緑との林檎が二つある。紅は紅、緑は緑で何れも明確である。而もこの二つがこの如くこの卓上のこの時間に重りころげて、深く深く相親しみ、色と色とを映じ、香りと香りとを混へ、影と影とをぼかし、本質と本質との接触を愉楽し呼吸することは真にこれ千万年にただ一度の機会である。この再びなき機縁を二つの林檎も感謝し、これを観る人も亦真に礼拝しなければならぬ。かうした場合、紅と緑とが愈々明確である故に、その中間の色合は、陰影は、その背後の空気は愈々深く、愈々美しく揺曳する。(北原白秋「芸術の円光」より)

 そもそも物欲否定派のショーペンハウアーも、精神的な楽しみとして芸術の鑑賞・制作などをすすめているのですが、“物としての芸術”でも古い伊万里焼や宋代の青磁、清代の色とりどりの焼き物、もしくはきらびやかな紙をつかった書の作品などに精神性が無いなんてことは絶対に無いと思います。

 むしろ、それぞれの時代の空気だったり、作者の心のもっている香りとかに溢れているのではないでしょうか。同じく北原白秋の詩集『白金之独楽』にこんな作品があります。

 壺二曲
  一
タレコメテ今日モアヤシキ土クレヲ
ロクロニカケテ、ナニトスカ、
日ネモスカガヤク壺ツクリ、
タレコメテノミシヨンガイナ。

  二
モトヨリ悲シキ土ノクレ、
タタキツケラレ、独楽トナリ
ロクロ廻レバクルクル廻リ、
光リ極マリ壺トナル。

「たれこめて」は戸を閉ざして一人とじ籠もる、「シヨンガイナ」は「まぁそれより仕方ないでしょう」のような意味です。ファッションも同じで、色と色をかさねるときにも、その中に込められている香気や味わいを感じて毎日を生きられるってことは、この苦しい世界を無上の幸福境に変えられるひとつの方法なのではないかと思うのです。

 そういう意味では、ファッションは楽しめば楽しむほど芸術寄りになっていくのではないでしょうか。というわけで、わたしの考えでは「ファッションは浪費ではなく、心の底から楽しんで幸せを感じられれば、すごく魅力的な芸術」だと思います。

ABOUT ME
nui
漢服愛好家。 埼玉の北のほうに棲んでます。漢服の魅力やコーデのつくり方、楽しみ方などを書いています。皆さまにも、上質で優雅なファッションで幸せな時間を楽しんでいただけるきっかけになったら嬉しいです。 クラシカルで貴族のようで、きちんと綺麗なファッションが大好きです。